ブックタイトルふるさと潮来 第四輯

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概要

ふるさと潮来 第四輯

制施行chub、水原村を分.離して村名を津知村と改称した。当時辻村と築地村を合わせても、戸数二九O戸で、標準規模に達しなかったが、両村とも富裕で、独立白資力があったため、合併して一村を形成した。旧辻村は旧築地村よb分離した村であり、昔ζの地を津知と称したととろから、新村名を樟知村と称した。ω旧延方村往古、延方津といわれた地で、古高村、須賀村、洲崎村に分かれていたが、元職年間K合併して延方村と改めた。中世Kは同じく島崎氏K属し、後に佐竹氏、更に水戸藩領となった。近世初期から開柘の進められた徳島白地は、寛文二一年ー(一六七一一)、幕府の裁定により延方村に所属した。明治κ至hy水戸県、新治県、茨城県と移り変った。明治二二年の町村制施行当時、戸数六六O戸、人口も三七OO余人で、独立の資力は十分あったため、他村と合併するととなく一村で独立し、村名も従来通り延方村と称した。凶旧大生原村現存する大古墳群からも推察できるように、古代からその名む知られた地である。往古は大生郷K属し、中世K大生氏む支配を受けたが、有力武将の寄進Kよる鹿島神宮の社領も存在した。佐竹氏の移封後は、麻生藩新荘氏に所属し、大賀、釜谷、水原の四村大生、K分かれていた。廃藩置県Kより、麻生県、新治県、茨城県と変遷し、明治二二年の合併で四村を合わせて大生原村と称した。当時各村とも小村で、各々独立の資力も左く、江戸時代はともK麻生藩領で、明治に至っても行政区域が同じであったため、合併して一村となった。村名は、ζの地がもと大生郷K属していたので、その郷名をとり、また水原村白原を合わせて大生原村と称した。一一、旧町村の姿昭和三O年の合併以前は、旧潮来町、延方村、旧大生原村の一町三ク村が独立していた。れら旧町村の成立は、明治二二年の全国的左町村大合併κよって生れたもので、そ白後約六0年間む世界的左産業、経済、社会、文化の大発展に対応でき左い状態にbかれていた。そむため、昭和二八年κ町村合併促進法が公布され、同法の骨子とする「今後三ヶ年に概ね町村数を三分の一に滅させるととを目途として、町村合併を促進する」の趣旨によって、合併が実施されたものである。従ってとの六0年問、旧津知村、|日-52-と旧一町三ク村生活圏を同じくする近接町村として、密接左関係を保ちながらも、行政的には夫々独自在歩を辿ってきζζにそれらの様子を記述するのは困難であはている。