ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
大和朝廷の支配第2章は、湯坐の存在があったことになる。湯坐に関係のある者は、水の支配とも結びついていたようである。湯坐と関係のある菊多の地には、有名な菊多関(勿来関)が置かれていた。闘が設けられた菊多の地の周辺は、阿武隈高地の丘陵が海岸に伸びており、交通の障害にはあまりなっていないが、自然に防御の地形にはなっそのうえ大津港(北茨城市大津)や鮫川の河口港(いわき市植田)などを含めた水運の重要拠点でもあったのである。水運を利しての蝦夷ている。舟塚山古墳cr石岡市の遺跡』より)地の平定に、茨城国造の一族が必要とされ、活躍したのであろう。多郡許呂命の子孫とされる茨城国造が、壬生連麿とみえるのも重要である。壬生連は壬生部の伴造でもあるので、茨城国造は壬生部の管掌もしていたのである。壬生部は乳部ともみえ、皇子の養育に関係する部である。このよBつに、茨城国造の一族が一貫して皇子の養育に関連しているのは、茨城国造が皇子の出誕儀礼や水辺儀礼に深くかかわっていたこ第1 -24図とが推測されるのである。『常陸国風土記』茨城郡の条には、倭武天皇みけつものたてまつが郡の東一O里にある桑原の岳でしばらく休まれたので、「御膳を進奉もひとりぺいいずみさよかぐわのる時、水部をして新に清井を掘らしめしに、出泉浄く香しくして、飲喫いとくごむに尤好かりしかば」とあるのも注目される。水部は天皇供御(天皇のしきいんりょう飲食物)の水などをつかさどる部民である。『職員令』にも宮内省にもひとりのつかさえん主水司という役所があり、供御の水を扱ったことがみえる。また『延ぎしきせんそだじようさい喜式』践一昨大嘗祭にも水部が重要な役目を果たしたことが記されている。大化改新以前には、」の水部の管掌にも、茨城国造がかかわったのではないだろうか。那賀国の範囲潮来町の地域は大化改新以前は、那賀国に属していた。那賀国の「那賀」はナカとよみ、本来の意味は「中」ひたみちである。『古事記』には、「常道の仲国造」とみえ、87