ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二章大和朝廷の支配第一節古代の景観行方の地とは潮来の地域は、古代から行方郡に属していた。『常陸うみ国風土記』には、行方郡は「東・南・西はともに流海、北は茨城の郡なり」とあり、震ヶ浦に挟まれた半島状の地を占めていたのである。続いて行方郡の条には、なにわながらとよさきあめには、難波の長柄の豊前の大宮に天の下をお治めになられた天皇(孝徳みずのとうしうばらきの〈にのみやっこみぷのむらじまろ天皇)の時代、突丑の年に、茨城国造で小乙下壬生連麿、那岡(賀)国みぷのおたいおのこたかむこ忽かとみのはたおりだ造で大建壬生直夫子たちが、惣領であった高向大夫、また中臣幡織田大「古老が言うこと夫たちに請い願って、茨城の地の八つの里と那珂の地の七里、合計七百余戸を割いて、別に郡家を置いた」とみえる。}の記事によれば、突丑の年(六五三)に茨城圏内の八里と那賀圏内の七里を割いて、行方郡が置大和朝廷の支配かれたことが知られる。茨城国と那賀国の霞ヶ浦に面した西浦と北浦のかじ包しかわふ忽地方が分割されたのである。茨城郡と行方郡の堺は、無梶河で河鮒のたぐいが書ききれないほどに多い、と記されている。現在、小川町の倉数から玉造町の中心街を流れて、霞ヶ浦に注ぐ梶無川に比定される。両岸第2章は行方台地で山林が多く、河口付近には水田地帯が広がっている。わみようるいじゅしよう行方は平安時代の辞書である『和名類衆抄』(『和名抄』)に「奈女加多」あらはらとあり、郡名の由来は倭武天皇(日本武尊)が天下を巡幸したとき、現原の丘(玉造町現原)においでになり、食事の後あたりを眺望し、お供の人びとをふり返って、「輿を停めて迫遥し、眼をあげて見渡せば、山ひだは高く低く入りまじり重なりあい、海の入江は長ながとうねり続く。峰たにの頭には雲を浮かぺ、諮の腹には霧を抱く。風光いと興趣あり、国の姿はめ〈はしは心ひかれるめずらしさである。まことにこの地の名を行細(配置の精妙)の国というべきである」と仰せられた。後の世にもその仰せのままに行方とよんでいる、と『常陸国風土記』にみえる。行方台地の丘、山と震ヶ浦の入江という景観が自に浮かんでくるようである。立雨零り行方の国行方の枕調として、『常陸国風土記』には、「風俗ことわざたちさめふの諺に、立雨零り、行方の国と云ふ」とある。まかかた常陸の国名は、「風俗の諺に筑波岳に黒雲控り、衣袖漬の国と云ふ」、新治の地名は「風俗の諺に、白遠新治の固といふ」、筑波の地名は「風俗の説に、握飯筑波の国といふ」、茨城の地名は「風あられふ俗の諺に、水依り茨城の国と云ふ」、香島の地名は「風俗の説に、震零る香島の国と云ふ」、多珂の地名は「風俗の説に、薦枕多珂の国と云ふ」とあり、地名には枕調がつけられて呼ばれることがあったようである。筑波と香島と多岡が「風俗の説」とあるが、「風俗の諺」の誤写であろぅ。「諺」の草書体は、「説」と間違いやすいのである。そう考えないと、なぜ筑波、香島、多珂の枕調が「風俗の説」で、常陸、新治、茨城、行81