ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代濫によって壊滅したとしている。また、エジプトにあるナイル川は、定期的に氾濫するため、土地が肥沃になり、麦の栽培に適していたとされるように、時には、大雨の時に、近くの河川を破ることによって洪水をE起こし、土壌を改良することが考えられる。茨城県内では、水田として利用される土地は、ほとんどが谷や谷津で、洪水を起こすほどの河川をもっていない。}のため、土地の改良は、休耕することによって自然に戻し、堆積物で土壌を改良したとするならば、縄文時代と同じように、一定の地域の中を一O年単位ぐらいで移動していたと考えられ、小さな集落がいくつもできることになる。後期後半にはいると、拠点的に大きな集落が現れる。}のことは、れまで展開してきた、生産する集団が、自然的に統合され、生産する集落と、それをまとめていく集落ができていったことが考えられる。でできた大きな集落は、後の地方豪族となる人物が存在しており、時期に、人の中に身分的な格差が現れてきたものと思われる。稲作を含めた各種農業が定着すると、農業技術ととも農耕具の発達にはいってきた各種の農具類がみられるようになる。平地に作られた大規模な水田ゃ、集落などから出土する農具の種類は、機械化されていない近世の農具の種類とあまり変らないくらいに揃っている。茨城県内から出土している弥生時代の農具は、ひたちなか市猪遺跡、東海村須和間遺跡、旭村浜山遺跡で打製石鍬、日立市大聾、助川、岩瀬町磯部で石包丁などがある。石包丁は福ひたちなか市岡田遺跡で石鋤、島県では数百本が確認されており、西日本でも同じ傾向が見られる。しかし、北関東の中でも、特に、千葉県、茨城県、栃木県などは、石包丁の出土例は極端に少ないが、土浦市原田遺跡群から剥片の石包丁がかなり出土しており、}れまで、確認されていなかった地域にたいして、再80確認が必要になっている。)のほかに、別な材質(貝刃、木製等)の包丁があったとも考えられる。当時代の農具の傾向は、石製品よりも木製品が多く見られる。茨城県内では、木製品はまだ発見されていないが、」れまで確認されている木製品は、農耕具として、田下駄、鍬、鋤、えぶりなど水田耕作に必要なものが多くみられ、脱穀具としては竪杵、横杵、盾臼などがあり、のほかに、木製容器などの生活品ゃ、機織道具などの手工業用具もみられる。v」土地条件によって大きく左右された農耕は、どんな地域でもできるものではなく、まず水田に適したところを見つけなければならない。町内の弥生時代遺跡の分布を見ると、いずれも谷に面したところに立地して。コむしろ狭い谷津を利用する方が効率よく生産できたようである。ゃ後世の書物に「夜との神」伝説がみられるが、おり、}れは、水田の多くが谷津に求めたことによりできた伝説と考えられる。}の条件に合うところは町内には少ない。というのも低地はほとんど湿地帯であるからである。現在のように濯滅設備が整っていないため、大規模な耕地は確保できなかったようである。しかし)れまでの調査の中で、小規模な濯瓶施設が調査されており、稲作技術とともに必要な技術は同時に入っていた。これらのことをみていくと、町内における弥生時代の遺跡は、少なくとも縄文時代遺跡数の何分の一かは存在している可能性がある。