ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節大生神社の祭礼と神事大生原地区大生神社の存在は、大生の地名が『常陸国風古式な祭礼神事の伝承土記』や中世文書にみられ、また周辺に大生古墳群があるなど、古くから多氏一族の奉斎した神社として注目されている。また鹿島神宮とも密接な関係があり、中世にはその神領でもあった。鹿島神宮東禰宜家累代の系譜を記した「鹿嶋大明神御斎宮神代々」には、「:::当禰宜中臣常光、依勅宣祭紀之、大生大明神是也、惟時大同元年十一月十四日也、因弦大生大明神之祭、毎歳十一月十四日、十五日、十六日、二夜三日代々斎宮並当禰宜勤行之大生宮者南部自大生ロ巴大明神選座故号大生宮」とある。現在は十一月十五日が例祭だが、かっては二夜三日にわたって大生神社祭礼が行われていた。そして、)の祭礼には「斎宮並当禰宜」が勤行していたのである。「御物忌知行三百四拾石納払方之目録」(鹿嶋市東家文書)の明暦二年から万治元年(一六五六i五八)の払方の項によれば、「大生之宮」祭礼に対して約五石が充当されている。また、明治七年(一八七四)の大生神社祭礼と芸能棟札裏書には、「その中にも十一月二夜の祭には鹿嶋の宮より御斎渡御祭の官人数十人渡り来て大幣白巾を捧げ献る古実なり」とある。物忌日斎宮は、嗣宮中最高の位置でその出輿はきわめて重大な祭儀にのみ行われ白昔、l'-、晶、,。JJ11《、v--第4章「御斎出輿年中大祭之図」(東家蔵)によると、その出輿は年に六度、その一つに十一月十五日の大生宮祭があり、大生神社の庭上に物思の乗輿が据えられ、嗣官数人とともに祭儀を執行する様子が描かれている。さらに東家には、物忌みの乗輿が保存されている。総白木板造、屋根は切妻造の妻入れ、身は長方形で幅二尺九寸、奥行三尺八寸五分、正面破風と四方左右に彫刻と金具を施し、〆縄を張り、入口に御簾を垂れる。彫刻は破風に鳳風、正面四隅に丸左藤花文、左右に牡丹と菖蒲を刻し、金具は金銅で巴文を刻する。百木の鞍を附し、前後にこれを受ける呉床一対が附属する。切妻造白木板方輿とよぶべきものである。なお、同家には附属器具として物忌用の、「ホガイ」と「火鉢」がある(以上、大場磐雄「大生神社の考察」『常陸大生古墳群』所収による)。現在この物忌の出輿は行われていない。祭礼・神事は、いずれも古式である。旧二月十一日湯立祭と十一月十五日の例祭で、湯立祭は湯釜祭ともいう。神前庭上の大釜に湯を煮立て、神宮が榊をつけて参集した氏子に修放をする。十一月十五日の例祭(本祭)は、庭上祭の一つ「献額伝送例祭と献鎮伝送の神事の神事」と神殿内の「亙女舞神事」が古式な神事として知られるが、本祭一連の次第を氏子総代大川文「大生神社の亙女舞神事」(『水郷の民俗』創刊号)から記すと次のとおりである。大生大神宮御本祭次第参進順序、先駆前導亙女献幣使随員大生区長祭事係宮司祭員御幣物氏子総代喜崇敬者一同是れより先、手水の儀有り次亙女御幣物献幣使以下参進荒誼の祭、所定の座に赴く次899宮司一拝、諸員之に倣う