ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代都市開発事業と並行して上下水道の整備事業が推進さ現上水道の整備れた。上下水道の整備は都市生活のみならず、潮来町の全域に住む住民にとって快適な生活を営む重要な基近礎的条件となるものであった。また昭和四十年代になると、経済の高度V成長が進むいっぽうで、霞ヶ浦や北浦の水質汚染や、ゴミ処理の問題など深刻な問題が発生してきた。潮来町における上水道事業は昭和三十七年に開始された。}れは常陸利根川の水を水源とするもので、大塚野へ浄水場を設置して、そこから給水を行うものであった。しかし常陸利根川は、渇水期に海水が遡上してくるため、水道水の塩分濃度が高くなることが何度かあった。昭和田十三年三月には、「広報いたこ」第四二号において、渇水期に水道水へ塩分が入ったことについて、役場の水道課が町民に陳謝すると同時に、水需要の増大が見込まれるなかで、新しい上水道事業計画の必要性を表明している。こうした状態から脱却するために、潮来町では昭和四十五年からこか年計画で上水道第一次拡張工事を実施した。昭和四十四年度には大生原地区に整井工事、導水管埋設工事、ポンプ室築造工事などを実施し、同年十二月には一部給水を実施するに至った。この工事で水源を従来の表流水(川の水)から地下水に代えたことにより、塩分を含まない水を供給できるようになった。}の後も拡張工事が続けられ、昭和四十八年春には大生原地区にも給水されるようになった。その後も水需要の増加が続き、従来の方法では水需要を賄うことが不可能となったため、北浦を水源とする給水計画が立てられた。その結果昭和五十七年には大生原小学校の隣接地に、四年の歳月をかけて田の森浄水場が完成した。}れにより大塚野の潮来浄水場と、大生原の井戸はその役割を終えた。田の森浄水場からの給水業務は、今日まで続けられ812ている。上水道事業は昭和四十一年に行われた公営企業法の改正により、潮来町においても昭和四十二年四月から独立採算制をとることになった。昭和五十九年七月の「広報いたこ」第一六七号では、上水道の普及率が約七九パーセントであり、全戸給水を進めていることを明らかにした。その上で一立万メートルあたりの水道水の原価が二九五円、給水単価が一五一円の赤字経営であることを示し、節水の重要性を訴えている。町の事業により上水道事業は発展していったが、供給する水の水質に関する問題が深刻化していった。昭和四十年代以後においては震ヶ浦や北浦の水質汚染が急速に進んでいったからである。水田で使用される農薬や肥料、家畜のし尿、生活系排水が大量に湖に流入し、そこにA百まれる窒素やリンなどの栄養塩類が汚濁の原因を作った。人びとが日常の生活を営み続けているうちに、湖の富栄養化が進行したのである。しかしこの問題は放置しておける限度を越える時期がやってきたのである。水質汚濁の問題は昭和四十年代から取り上げられ、潮来町でも水質浄化運動などを展開してきたところであった。こうした状況の下で、昭和六十三年十一月に発行された「広報いたこ」第一九四号は、「水道水からの警鐘」と題する特集を組み、}れはその前文で次のように書いている。まさに、生活系排水に関する住民生活の基本的な枠組みの変革を強く求めるものであった。「腐るいまに飲めなくなるよ」:::私たちの暮しを守る生活水は、ただいま薬づけです。それが、私たちの体に害を及ぼす量を超える日がくるのではないかと心配です。そこまで汚した「原因は、誰が」、私たちは十分に知っているは