ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
潮来町の誕生第4章本町は行方郡の最南端に位し東は北浦を挟んで鹿島郡鹿島町と相対し、西は牛堀町と隣りし、南は千葉県佐原市と利根川を挟んで境界をなし、北浦をもって同じく鹿島郡に相対している。地勢は三方が殆んど水に固まれ、文字通りの水郷である。霞ヶ浦及び北浦の両湖水の交文する横利根川と北利根川とを控えた平坦な沖積層からなる水田地帯の一角にあり、水利よく、水稲早生場地帯として知られ、水田の八O%は道路の代りに水路を利用しているいわゆるクリーク地帯で、水郷の中心地である。往時は入海であった構成されている所が多い。ことは地図を見れば明瞭であって、耕地の下層は貝殻または泥炭で合併後の人口および世帯数人口均I当世人り帯平口人密度口世帯数男女計潮来地区1364 3315 3649 6964 5.1 541津知地区390 1072 1 186 2258 5.8 505延方地区1000 2999 3223 6222 6.2 325大生原地区439 1282 1384 2666 6.1 196総数3193 8668 9442 18110 5.7 361第V-49表昭和31年4月1日現許ーの数字である「町勢要覧J(附和31年版)による従って低地のため常時水害地帯として有名であったが、近時、堤防の補強及び排水機の設備などのため水害は特殊なもの以外は回避せられるようになった。西北部に僅かながら低い台地があり、その一部は畑地となって、!、,。、V-J -洪積土壌で干害を蒙り易く、生産の安定性を欠くが、面積は僅である。山林は台地及びその傾斜地にあり、松林が多く、台地続きに牛堀町の台地に続いて、・30、v -az--合併によって町域は拡大されても、三方が水に固まれた水郷であることに変りはない。畑面積の七倍を超える水田は、低地のために水害常襲地の名をほしいままにしてきたが、堤防補修や揚水機設置により、水害はよほどのことがない限り避けられる。ただし台地の畑作は干害を・つけることが多いという。ここで、合併後聞もない昭和三十一年の地区別人口を見ておこう。総人口は一万八一一O、うち三分の一強を潮来地区が占める。}の地区は世帯当り人口も農村部の三か村とは異り、人口密度も密であり、市街的性格をもっているとみるのが当然である。したがって、新しい町を建設する基本方針を「教育機関の整備をするとともに、土地改良、土地造成の事業の拡充、農業の高度化及び商工業の隆盛と観光事業の興隆を期して社会的、経済的、文化的飛躍を遂げ、農商工観光一体となり、}れの育成に努め」としたことは、故なしとしない。合併によって拡大した財政規模をもって教育の充実をはかり、干拓などにより農業の生産基盤を整備し、商工業を隆盛に導き、さらに観光事業を興し、}れら産業をパランスよく発展させていくというのである。大潮来町合併祝賀式典は、四か月後れて、昭和三十年六月十一日午前十時から潮来高校講堂で挙行された。もちろん}の日から三日間、町の観光協会と商工会の共催により、アヤメ祭りも開催された。新しい町は、とりあえず、景勝と早場米によって象徴されることになる。新聞は」れをつぎのように紹介した(「いはらき」新聞昭和三十年六月十一日)。潮来町は昔から観光都市として幾多の民謡等によって全国に知られている全国屈指の景勝地で、北利根川畔のアヤメを始め、十二橋、稲荷山、天王山、長勝寺、神高橋、大生原水原観音、古墳群跡、硯宮、二十三夜尊等々名所旧跡も多く釣の名所でもあり、また早場米の産地として名高く、767すでに一面の青田は一番除草の真っ盛りで、