ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

に転ずる者が多く、教員はいつも定員に足りない、生徒の行動は悪ぃ、先生はない、校長はわらじばきで先生を求めた。その上いちばん困ったことは、教科書のないことであった。教科書は教師周一校に各教科二i三部づL配給されただけで、生徒用は一冊もこない。教師は教師用書から適当な教材をえらんで、}れを藁半紙に印刷して学習させた。無の中からの何かを求めてそれを教育に充てるという状態であった。校長と教師のあいだに「日本を敗戦から救うものは、教育をおいてない」「日本の復興は教育から始まる」、この烈々たる民族愛と教育への熱情が、疲弊と混乱のなかに生れた中学校を支えたことであった。PTA・教育委員会・学校給食の始まり戦後の学校教育は、六・三制の義務教育を柱とする単線型の仕組が作られたが、}の他にもいくつかの新しい制度が作られていった。PTAは、昭和二十一年に来日したアメリカ教育使節団の報告にもとづいて、GHQが組織化を強力に指導、奨励したものであった。昭和二十二年三月五日、文部省は「父母と先生の会|教育の民主化のために」PTAの結成が具体化しと題するパンフレットを各都道府県に配付し、ていった。PTAを結成する目的は、父母と教師が対等の立場に立って潮来町の誕生話し合いを行い、教育の民主化を実現していくことであった。戦前の小学校にも父兄会などが存在したが、学校に従属する学校後援会としての色彩が強かった。学校に従属する組織ではなく、地域住民と学校を横に結ぶ組織としての活動がPTAには期待されたのである。第4章昭和二十二年になって新しい小学校と中学校が発足すると、各学校では積極的にPTAの結成がはかられていった。延方小学校の場合には昭和十九年に教育後援会が作られていたが)の組織を基盤としながら新しい理念を取入れたPTAが昭和二十三年に発足した(『延小百年史』)。初代会長には、教育後援会長を務めていた荒原善寿が就任した。延方中学校が小学校の一部を利用して開設されたこともあって、P TAは小中学校合同の単一組織として出発し、昭和三十六年に小中学校が分離するまで、一つの組織として活動を続けた。PTA発足当初の活動では、六・三制を柱とする「戦後教育」の学習が熱心に行われた。国家主義の精神でわずか三年前まで国をあげての大戦争を行ってきた人びとが、GHQからの指令により戦後の民主教育の理念を学び、理解することは大変なことであり、父母にとっても目新しく驚くべきことでもあった。戦後教育の理念について学ぶと同時に、厳しい経済状況のなかで戦後教育を発展させていくためには、父母が学校経営に援助を与えていくことが何よりも重要なことであった。教育環境の整備はきわめて重要なことであった。また教育活動に必要な消耗品類は、PTAの会費で賄わなければならなかった。潮来小学校においては、昭和二十五年一月二十日にPTAが発足し、初代会長には北城藤太郎が就任した。後の教育環境の整備は急務であり、PTAはさまざまな形で学校を援助}こでも昭和二十二年の校舎焼失していったのである。昭和二十四年十月には、行方郡PTA連絡協議会が結成され、PTAは広域的に組織化が進められていった。PTAは、G HQが示した目的とはいささか違った面、つまり学校後援会的な活動において大きな力を発揮したことは否めなかったが、戦後の混乱期において学校教育再建のために大きな貢献をしたのであった。次に戦後の教育行政組織として、新しく作られた教育委員会制度につ755