ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代各町村のそれぞれが中学校を設立したが、いずれも小学校の校舎の一部現を借りるか、使用しなくなった施設を中学校として使用する、という形で中学校を発足させている。従来の国民学校時代の初等科六年と高等科近二年の時代に比較して、新制中学校の三学年分の施設があれば、とりあVえず急場をしのげるという考えもあったが、教育内容を考えるとそれではあまりに貧弱なものであった。しかし肝心の財政が不如意であるため、背に腹は替えられないというのが実情であった。潮来町、津知村、延方村においては従来の国民学校の一部を使用して新制中学校が設立された。}のうち延方村は昭和二十年に、潮来町では新制中学校を発足させた昭和二十二年四月に、校舎を焼失するという大打撃を受けたのであるが、いずれも旧軍事施設の兵舎の払い下げを受けて、小学校と同居したのであった。大生原村においては、大生にあった旧北浦海軍航空隊の施設の一部をそのまま新制中学校として開設した。大生原村の中学生は、北浦海軍航空隊の跡地の建物へ毎日通学することになったのである。北浦海軍航空隊の跡地へは、大生原中学校のほかに海外からの引揚者寮である「水円寮」と協同病院が設置されて、戦後の混乱期の住民生活に貢献することになったが、『北浦海軍航空隊のしおり』によると、北浦海軍航空隊の施設は近隣各町村へ払い下げられて、主に中学校の校舎として利用された。すでに述ぺた事と一部重複するが、それらを列挙すると次のような小中学校の校舎であるという。延方村立延方小学校潮来町立潮来小学校麻生町立麻生中学校津澄村立津澄中学校要村立要中学校小高村立小高中学校行方村立行方中学校大生原村立大生原中学校延方村立徳島小学校これをみると近隣町村においても中学校建設にあたって、旧北浦海軍航空隊の施設の払い下げを受けて開設していたことがわかる。茨城県内754の他の地域を見ても、不要になった各地に散在する旧軍事関係施設の払い下げを受けて、中学校を開設している例があるので、当地方が特殊であったわけではない。とにかく財政難のなかで、各町村が大きな苦労をしていたことを推測することができるのである。中学校設立当時においては、以上述べてきたように施設の問題があっEF--、A、φ'hAμそれに加えて教員の確保が困難な問題であった。茨城県当局は昭和二十二年三月の記者会見の席で、中学校教員の人材を幅広い対象の中から採用する方針を表明したが、それは人材難を表明していることでもあった。茨城県が実施した昭和二十三年五月二十日現在の教員欠員調査によると、定員に対して茨城県全体では中学校が二八・三パーセント、行方郡が一一二・六パーセントの欠員率を記録している。ちなみに小学校教員の欠員率は茨城県全体で一五・三パーセント、行方郡で二二・三パlセントであった(『茨城県教育史上』)。新制中学校発足当初の教育環境の劣悪さと人材難について、『行方郡教育史』は次のように記録している。中学校は開校しても、教室はなく、都会は勿論、田舎にも校舎はなかった。小学校の一部を借りるか、軍の残した兵舎が利用できればいい方で教室がなく、学校は開設したが、みな青空教室を行っていた。新制中学校の名称と青空教室の言葉は当時の社会用語で、の言葉は昭和二十五・六年頃までつづいた。それ程学校の建設は困難をきわめた。中学校の教師のなり手がないことも、当時の校長の苦労の種であった。中学校の教師を希望する者がなくむしろ退職して他の職業