ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代ここで敗戦後の混乱のなかで起きた、延方国民学校の火災についてふ現れておきたい。敗戦後の残務整理のために兵隊が校舎に残り、校庭はほとんどがさつまいも畑となっていた延方国民学校では、敗戦後約一か月近後の九月二十日の夜に出火し、昭和四年に建てられた二階建校舎が全焼Vしたのである。}の時教員であった内堀資郎は『延小百年史』に思い出を記しているので、その一部を次に引用したい。その年は九月に入ってもいつまでも残暑が続いていた。ようやく秋の気はいが濃くなって来た二十日夜八時半頃、新校舎東の端より出火、煙は北東より南西へ僅かに斜めになって流れていた。駆けつけた時には一教室位(一、二階とも)の窓から火を吹き出し、ガラスが異様な音をたてて落ちていた(今でもその音が耳に残っている)。途端に重要書類の搬出を思った。火は東から出ている。西の端にある戸をこじあければどうなるか。何人かが集まってきた。ためらっている時ではない。戸を体当たりではね飛ばした。熱気が吹きつけた。火は廊下の天井を這って中頃まで来ている。職員室の戸をこじあけた。五・六人が飛びこんだ。当時残務整理のため旧校舎の一部に宿営していた陸軍の兵隊だった。「重要書類はこの中だ、出してくれ」と怒鳴った。窓枠がじゃまだった。取り外す時に右腕内側に縦一文字にガラスの切り傷。今もその跡がかすかに残っている。重要帳簿、書類物品、リレl式に外へほうり出す。外にいた人達がそれを抱えて安全地帯へ。ほんの数分の聞と思っている。煙で見えなくなって来た。天井には炎が這ってきた。煙と熱気、ブワッ!と云う熱気。「これ以上は危険だ、外へ出てくれ」。それでも最後に当時の校長河野清衛氏の机を皆で引きずり出した。背中が熱かった。火と煙と熱気。職員室はそれが最後であった。750校舎を焼失した後、延方村では鹿島郡高松村(神栖町)にあった、神ノ池航空隊の兵舎を払い下げてもらい、校舎の再建に着手した。兵舎を解体して運び、村民総出で校舎の建築を行った。馬車のある家はすべて動員されて運搬作業に従事し、校舎建築にあたっては、児童も瓦上げなどの作業を行った。校舎の再建工事は数か月で完了したが、授業はそれまでの問、午前と午後に分れて二部授業を展開することになった。昭和十九年に兵隊が国民学校へ入って来た時から二部授業の形態をとっていたが、敗戦後においては校舎の焼失により再び二部授業を余儀なくされたのであった。価値観の転換にとまどいながら、新しい時代の教育を開始しようとした矢先の校舎焼失は、延方村の人びとに甚大な衝撃を与えたのであった。戦後の新しい教育制度については、敗戦後間もなくの六・三制義務教育の始まり時期から文部省が中心となって新しい教育制度を模索していた。国体の変革を防止した上で、民主主義的な教育制度を作ろうというのがその主旨であった。しかしGHQの考えは、日本政府の方針よりはるかに根本的な変化を要求するものであった。昭和二十一年にアメリカ合衆国から、ストッダ1ドを団長とする教育使節団が来日して日本の教育のあり方を調査し、GHQに答申を出した後になると、GHQは日本政府に具体的な教育制度についてさまざまな指示を発してきた。これらを受けて文部省は昭和二十一年から翌年にかけて、教育の基本方針及び具体的な制度についての案をまとめ、昭和二十二年三月の国会において、教育基本法及び学校教育法の二つの法律が成立し、同年四月一日に施行されることになった。教育基本法は、戦後教育の基本精神を宣言するものとなり、教育方針