ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代反別を減じ、或は肥料の採収を怠るが如き事あらば、之が為めに却現て其収得を減ずる者と云ふぺし。蓋し労苦を去って安逸に就かんとするは人情の常なり。藁細工は心身を労する事甚た少き簡易なる織近業なり。自ら農業を去て之に従事する事を保すべからず。本村内にV於て藁細工のみを以て其営業とし、全く農耕を為さLる者現に数戸ありと云ふ。斯の知きは副業の性質を誤解せる者にして、農業の為に取らざる所なり。農家副業の本質論につづいて、さらに報告は、わら細工の工賃が低いことを強調し、将来製品価格が上昇し、それにともなって工賃が上昇することを希望はするが、そうはならないであろうという。理由は、わら細工副業に手を染める者が増加しているからである。農家副業一般が市場価格に左右され、結局は廃業に終るのであるが、かます製造といえどもこの傾向から免れることはできない。「(かますの)価格騰貴し利益増加する時は、従業者増加し、製品の価格下落するは明なる所なれば、現今より其価格騰貴する事は到底期待すべからず」と暗い展望を述べて、・30Led-大正初期において、農家副業は第一次世界大戦とそれに続く日本経済の好況に影響され、一時的に活況をみせるが、大正九年(一九二O)の戦後恐慌、それにつぐ昭和初年の大恐慌により、ほとんど破産宣告をうける。しかし延方のかます製造はこれをしのぎ、生き長らえた。昭和九年五月の新聞記事は「藍織の収入で嫁入支度」と不況が全国を覆っていたにもかかわらず、景気のいい記事を載せている。この間にわら細工をはじめる農家も増加し、昭和十四年(一九三九)には行方郡内二O町村のうち一七町村においてわら工品製造の副業が行われるようになった(「いはらき」新聞昭和十四年四月二十九日)。不正確と思われるが昭和十年の一か月間の統計が新聞に載っている(同昭和十年740二月十三日)。潮来町域についてみれば、延方村が一二万二O二三枚で群を抜いている。大正初年に年間五万八OOO枚ほどを生産していたにすぎないから、伸張著しいものがある。旧潮来町でも六万四八七五枚、津知村二万五三六O枚、大生原村二万O二六枚で行方郡内の上位を占めて、!30、u -d-ついでにいえば、後年「新興生産地帯」といわれた大和村(麻生町)は(同昭和二十年十一月九日)、すでにこの時点で五万一一五八枚生産し、郡内第三位に入っている。昭和十四年になるとコ行方郡地方農家副業の王座をしめる藁工品生産は近年著しき躍進を見せ全国第二位の産地として君臨するに至った」(同昭和十四年四月二十九日)ほどの盛況をみせるようになる。全国第一位の産地はどこなのか調ぺょうもないが、前年に茨城県は歴史的な大洪水に見舞われたので、当地方も原料わらは払底していた。このため延方村では「直に東京神奈川方面より空俵を購入して生産に着手」(同)したという。農村の副業が都会から原料を仕入れて加工し都会に移出する構図は妙であるが、大正期においても、労賃とほぼ同額の原料わらを購入していたのであるから、運賃がかさむ程度の不利益をうけただけかもしれなし、。この時延方の製造したかますは、七二万九三六八枚といい、旧正月一一日の初荷だけで一万円余を出荷する好況であった。ちなみに行方郡の生産したかます三五七万枚、むしろ、縄類をふくめた産額七二万二四七三円一九銭とある。大正期の調査が将来性に疑問を持ったかます製造ではあったが、の年は従来にない高値で取引された。水害の影響による品不足ばかりでなく、戦時体制に入った日本では、軍事用のかますが要請されたためとみてよい。さらにむしろ織機に改良も加えられ、大正初期における単位生