ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現第二節農地改革近V昭和二十年(一九四五)八月十五日の「ポツダム宣言」農地改革受諾により、満州事変|日中戦争|太平洋戦争と続いた「十五年戦争しが終結する。}の終戦の日からほぼ二か月後の十月十一日、連合国軍総指令部(GHQ)は日本政府に対し、日本軍国主義の温床となったとされる旧来の伝統的社会秩序の清算を目的とする次のような五大改革を指示した。選挙権賦与による婦人の解放2労働者の組合化促進より自由主義的教育を行うための諸学校の開校34秘密の検察及びその濫用が国民を絶えざる恐怖にさらした如き諸制度の廃止5生産及び貿易手段の収益及び所有を広範に分配するための経済機構の民主化の五項目である。}れらの指示を受けて日本政府が行った諸政策を総称して「戦後改革」とよぶが、}の改革は、それより約八O年前の明治維新による諸改革以上に一般民衆の生産、生活に大きな変革をもたらすものであった。本節では、}のなかから、五大改革の内の第5項、経済の民主化の一環として強力に推進され、当時の潮来町域の社会関係を大きく変化させた「農地改革」についてみていこう。農地改革は、明治初年の地租改正を契機として発展しその後明治後期・大正期から昭和前期にかけて農村内部に君臨して、日本農村における名望家支配の根幹をなした「地主制」の根本的な廃絶を目的としてい728た(潮来町域における地主制の展開については第二章第二節参照)。GHQは昭和二十年十二月、「農地改革に関する覚書」を日本政府に示し、自作農創設を柱とする抜本的な農地改革計画を翌二十一年三月までに作成し提出することを命じた。一方日本政府も農林省が独自に改革案の作成に着手、昭和二十年十一月には「農地制度改革の件」として閣議に提出、内閣の修正を経て二十年末に法案として議会を通過した。これを第一次農地改革法という。しかしこの第一次農地改革法は、「自作農創設」「小作料の金納化」「市町村農地委員会の刷新」など、後の農地改革の基本線は打出されていたものの、在村地主の小作地保有限度が五町歩、不在地主の小作地についても自作する意思があれば買収除外となるなど、極めて微温的なものであったため、G HQに受入れられず、農地改革の具体案作成は連合国の対日理事会に移された。そして対日理事会の決定(対日理事会では、一切の小作地の国家買収と六町歩以上収用地の無償没収を内容とするソ連案と、地主の小作地保有限度一町歩とそれ以上の小作地の有償買収を内容とするイギリス案が対立したが、結局イギリス案が採用された)が、改めて日本政府に「勧告」され}の勧告の内容にそって昭和二十一年七月二十五日に「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」が、ついで八月六日には具体的な法案として「農地調整法改正案」「自作農創設特別措置法案」が閣議決定された。そして同年十月十一日にこの政府原案が無修正で議会を通過、「第二次農地改革法」が成立したのである。この第二次農地改革法による改革の内容の中心は、従来地主が所有していた小作地を国が買収して小作人(耕作者)に売り渡すことであった。その手続きは、まず市町村農地委員会(階層別選挙によって選出された