ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代つぎの引用にみられるように、昭和二十五年秋には、工業原料と、li・。、V〈現して本来期待された役割も否定される。行方郡地方のさつま芋は高温多雨に恵まれ近年にない大豊作で反収近六百貫は確実とみられており、すでに収穫をはじめているが、食料V事情の好転で食用向としての売行きがすこぶる悪く、北海道、東北、東京各方面にも移出したがいずれも安値で十二貫入り一俵が北海道東北は六百円、東京は五百円程度で、運賃、手数料などを差引くと欠損するという有様でむしろ原地で澱粉原料として販売した方が割がよく折角当てにしていた県外移出策も望みうすとなった。同郡下のさつま芋作付面積は一千二百二十二町歩、生産目標三百九十九万二千二百九十貰でそのうち政府買入数量はわずか四分の一の百四万一千五百貰だけで農家保有量百五十万二千八百五十一貫を差引いても百三十三万八千貫の自由販売数量があり澱粉原料だけでは到底消化困難とみられるので、販売連麻生支所では近く各町村農協組合長とその対策について協議することになった(「いはらき」新聞昭和二十五年九月二十九日)右にみたように、甘藷茨城一号は、短い歴史的役割を終えた。しかし、これだけ評判を落したのは、厳格な統制経済と供出制度のしからしめるところであった。茨城一号の洪水に反して、県内の米の供出は低調であった。昭和二十一年産米についていえば、昭和二十二年一月現在で供出割当の達成率は、二八パーセントにとどまった。前年二月十七日に食糧緊急措置令が出された。政府は個々の農民に対して米の政府への売渡期日を指示したばかりでなく、強権を発動することによって、農家の倉から直接、強制的に米を買上げることもできた。その後盾になったのは、日本の警察権力だけでなく、銃を携えたアメリカ占領軍も強力に援護したのである。722食糧危機は、食糧供出に対する占領軍の強力な指導と介入、食糧の輪入によって回避することができた。昭和十五年にはじまった食糧割当供出制は、米については昭和二十九年産米まで続くが、すでに昭和二十四年末には、甘藷、馬鈴薯、およびそれらの加工品について統制が撤廃されていた。昭和六年(一九三一)以降、茨城県出身の陸海軍人、戦没者と復員者軍属の戦死者は、約五万三OOO人にのぼる。在外一般邦人の死没者は三OOO人である。戦死者と死没者は全国では二一二万人といわれる。満州事変にはじまる一五年間の人的損害は、きわめて多かったといわなければならない。しかも茨城県の死没者のうちには「一家で五人の戦没者を出した家族三家族、四人の戦没者を出した家族一O家族、三人の戦没者を出した家族が二七一家族」(『茨城県終戦処理史』)もあったというのは、悲惨である。潮来町の戦没者を地区別にみれば、第V1HU表のようになる。六二O名もが戦争で尊い生命を失ったのであるが、地区別で最も多い延方地区で二三三名、潮来地区二三一名が四地区で最も多い。原史料は、西南戦争からの分が含まれている。そのうちでも太平洋戦争による死没者が他を圧倒して、全体の八Oパーセントを越えている。これら戦没者のうち、一ュ1ギニアで戦死した兵士が潮来地区で四O名、津知地区で一九名、延方地区で四三名、大生原地区で一八名を数える。実に太平洋戦争の戦死者のうち、四人に一人はニュlギニアで戦死したのである。東部ニュ1ギニアおよび周辺諸群島は、日本軍の侵攻が行く手をさえぎられ、連合国軍が反撃を開始した地域であり、日本軍の犠牲が大きかったところである。さらに昭和十八年九月の「サラワケッ