ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
すると共に将来益々奮励自省してその期待に背かざらんことを誓う村当局と小学校教員や学務委員らは、計画具体化のために精力的に活動を進めていった。指定から約一年を経過した昭和十一年三月七日には、午前十時から延方尋常高等小学校において延方村全村教育第一次修了報告会が開催された。延方村の全村教育の実施過程に関する具体的史料はないが、}の報告会の内容をみると、実践された内容を推し量ることができる。報告会は次のように行われた。全村教育修了式(午前一O時)施設公開(午前二時)組小学校青年団体験発表会、延方校模擬産業組合役員会組古高部落壮年団古高部落常会組洲崎部落主婦A:z:;洲崎部落例メ泊、Z三青年団洲崎支部共同作業四組下回試作地青年団下回支部田園修養会五組下回部落篤農家経営の実際不況と戦争展覧会公開(正午)四研究発表会(午後一時)全村教育一年次修了に当りて(山沢喜兵衛村長)第3章全村教育の機構と運営の実際(笹目広介延方尋高小校長)其他五県官講評壮年団、主婦会、青年固などの組織化を積極的に進め、これらの組織を中核として村作りに励んでいる様子がうかがわれる。全村教育運動の方法は、村落社会に長い伝統として伝えられてきた隣保共助の精神を生かしながら、恐慌により疲弊した農村を自力で更生させようとするものといえよう。昭和十一年に社会教育課指定の全村教育を実践した、結城郡豊加美村(下妻市)の「全村教育報告書」をみると、隣保共助の精神を核として質実剛健な生活を創造し、国家の繁栄に寄与するこであった、とが明記されている。延方村の修了式の内容からも、豊加美村の報告書と類似した活動を行ったものと考えられる。これらの共同体的精神を紳とした地域社会の組織化は、日中戦争開始後の本格的な戦争の時代になると、常会や隣組という形で完壁なまでに行われ、戦時下の各種動員体制や統制経済を支えるものとなっていった。このような意味において、全村教育運動は戦時下における地域社会の組織化を推進するための、先駆的な形態と特徴を持っていたといえよう。日中戦争の開始と小学校の教育昭和十二年(一九三七)七月七日に勃発した麗溝橋事件を契機として日本は中国と全面戦争に突入し、国内は一気に戦時体制へと入っていった。徴兵制度により現役兵として入営していく兵士に加えて、現役兵を退いた人びとが召集令状によって戦地へ続々と赴くようになると、社会生活全体が大きな変化を蒙ることになった。出征兵士の送迎、戦地へ赴いた兵士の慰問や応百家族に対する慰安活動、そして一家の中心人物がいなくなった家族に対する援農作業など数多くの事業について、小学校は村当局や在郷軍人会、婦人会、青年固などとともに担っていくこととなった。また小学校は、国策に沿って国家主義的な思想の普及と戦争政策の遂行を推進705