ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
制運動とよばれ、昭和十五年になると動きがはっきりとしてきた。実」士ιざまな勢力が新体制運動に係わるなかで、同年十月十二日に大政翼賛会が発足した。既成の政党は次々に解党して、大政翼賛会に参加していった。大政翼賛会は国防国家体制の中心的政治組織であるとされ、「大政翼賛の臣道実践」をスローガンとして組織的活動を開始した。総裁は首相が兼任し、道府県および郡・市、町村に支部が置かれ、その下に位置する部落会や隣組までを組織化した上意下達機関となっていった。当初においては政治結社を作る予定であったが、内部対立が表面化し、結局は政治活動を行わない公事結社となり、行政の補助的機関となった。昭和十六年十二月八日、日本のハワイ真珠湾攻撃を機に勃発した太平洋戦争により、日本は以前にも増して戦争体制を強化していく必要にせまられるが、大政翼賛会は戦争遂行のために国民を動員していく上で、中心的な役割を果たしていくことになった。茨城県では活動を本格化させていくために、昭和十五年十二月に市および郡の理事を一O名ずつ選任した。行方郡でも一O名の理事が選任されたが、このなかには潮来町壮年団長の大塚震、潮来町青年団長の大久保和夫、延方村青年団長の篠塚藤吉の三名が入っていた。翌年二月四日には大政翼賛会茨城県支部により町村支部長が選任された。町村支部長は原則として市町村長が選任されることになっており、潮来町は窪谷和、津知村は榊原正衛、大生原村は箕輪治三郎、延方村は山沢喜兵衛がそれ不況と戦争ぞれ選ばれた。三月には大政翼賛会市町村支部の理事、顧問、参与が選任され、各町村ともそれぞれ五名ずつ合計一五名が選ばれた。ただし潮来町だけは顧問が四名であった。}うして、大政翼賛会の組織は市町村第3章の末端まで整備されていった。このように上意下達の方法により、茨城県下の大政翼賛会の組織は作られていったのであるが、行方郡内においては、大政翼賛会的な組織作りを、県にさきがけて着手しようとする運動が展開されていた。それは昭和三年に新治郡真鍋町(土浦市)へ紫山塾を作り、勤皇まことむすび運動を指導していた、本間憲一郎の影響下にあった勢力である。本聞は「魂の天皇」と結ばれるための信仰と実践を深め、天皇絶対の国体観念の強化と、祭政一致の運営が行われる社会の建設を目的として活動していた。勤皇まことむすび運動は行方郡、鹿島郡、稲敷郡を中心に広範囲に広がっていた。行方郡においては麻生町が拠点となり、各町村単位にまことむすび会を組織したうえで、行方郡まことむすび会という連合組織を作っていた。昭和十四年三月には、行方郡まことむすび会が麻生町にあった蓮常院のおこもり堂を買収して改造し、修養道場を建設している(昭和十四年三月十八日「いはらき」新聞)。)こは皇学館私塾まことむすび道場と命名され、郡内における各種の修養行事や会議などに使用されるようになった。昭和十四年五月には、日独伊三国同盟締結を促進する世論を盛り上げるために、まことむすび道場や小学校を会場にして講演会を開催したり、「日独伊三国軍事同盟を締結せよ」と書いた立て看板を数十本、郡内各地へ立てるなどの活動を実施している。昭和十六年一月になると、勤皇まことむすび会の会員を中心にして、潮来町では「祈りの会」を結成する動きが具体化した。結成の準備段階では潮来町青年団長である大久保和夫を中心に活動し、結成式は同年二月十八日に素鷲熊野神社において開催された。}の結成式には麻生町の医師で、まことむすび運動の指導的立場にあった羽生藤四郎ゃ、潮来町長の窪谷和などが出席し、次のような趣意書が読みあげられた。て我等は皇国土潮来町の理想郷建設を全霊を尽して神に祈り天業翼賛皇国弥栄の行に徹せんとす687