ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

一ト諸負担ノ適正農村ニ於ケル寄付金ノ節約部落其ノ他ニ於ケル負役其ノ他ノ諸負担ノ均衡ヲ図リ以テ農家経営ノ安定資スルコトホ冗費ノ防止因襲ヲ改メ冠婚葬祭其ノ他無用ノ支出ヲ省キ生活改善ニ努ムルコト7各種災害ノ防止施設北済積立備荒貯蓄等各種貯金ノ充実イ備荒貯金ノ実行凶作水害其ノ他不時ノ災害及教育冠婚葬祭等ノ支出ニ応スル為メ共同貯蓄ヲ行フコト8農村一一於ケル各種団体ノ連絡活動促進イ各種実行団体ノ充実農会ノ充実ヲ図リ農事-一関スル指導奨励ノ中枢機関トシテ活動セシムルコトロ村経済更生委員会ノ活動村経済更生委員会ハ各種産業団体ノ連絡ヲ図リ経済更生計画ノ樹立実行ヲ指導スルコト9農村教育ノ改善イ農村教育ノ実際化ノ産業団体ト連絡ヲ保チ地方一一適応セル実際的智識ノ啓発ト小学校公民学校等ニ於テハ農会其ノ他農村民タルヘキ堅実ナル精神ノ練磨ニ努ムルコトロ男女青年ノ教育実際化男女青年ノ教育ニ付テハ農村経済不況と戦争ノ実際ニ即スル指導ニ努ムルコトしかし、以上に述べた救農土木事業にしても、経済更生事業にしても農業恐慌克服のきめ手とはならなかった。長い農業恐慌の泥沼から、うやく農村がはいあがるのは、昭和十二年以降の日中戦争から太平洋戦第3章争にいたる、しかし、日本経済の軍需インフレ化の過程においてである。軍需インフレ経済が農村にも浸透して、農業生産が活発化していくと同時こんどは戦時経済の負担が重く農業・農村にのしかかっていくこととなる。「応召」と「徴用」とによる農村の中堅労働力の喪失、軍馬の徴発による畜力不足、農機具・肥料などの生産資材の枯渇など、あらゆる生産条件の悪化が進行するなかで、戦時下における食糧増産の国家的至上命令が農民の肩に食いこんでいくのである。本項では、前項で述べたような農業恐慌下におけ恐慌下の農業生産る潮来町域の具体的な農業生産の姿をみていとう。まず、第VM表は恐慌前夜の昭和四年における潮来町域一町三村の種類別耕地面積を示したものである。}の表から、第二章二節でも述べたように(第vn図参照)、潮来町域が圧倒的な水田地帯であったことが確認でき、また畑面積中の桑畑面積が茨城県全体や所管行方郡平均に比較してきわめて低位であったことが検出される。とくに津知村を除く一町二村の畑面積に占める桑畑の割合は一割強に過ぎず、さらに水田を含めた総耕地に占める桑畑面積の比率を見れば、茨城県全体が一四・二パーセント、行方郡平均が一0・九パーセントを示したのに対し、潮来町一・八パーセント、津知村一0・九パーセント、大生原村四・八パーセント、延方村一・四パーセント、そして潮来町域全体でも三・一パーセントに過ぎなかった。大正末i昭和前期の茨城県の農業は、明治期の米麦雑穀生産中心の農業から変化して商品作物生産の比重を高め、とりわけ、養蚕業の割合が高く農業総生産価額の二割近くを占めていた、と前述したが、潮来町域では表に示したように、桑畑面積のよ僅少性H養蚕業の低位が見られ、水田地帯を反映して従来からの米作中心の農業が営まれていた。そして農家副業としては、後述のように米作の副産物である藁を利用した藍臥製造が盛んに行われたのである。昭和二年発行の『行方郡郷土史』から大正末期から恐慌直前の農業生産の概677