ブックタイトル潮来町史

ページ
663/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている663ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

可されていた水域で、北利根川、霞ヶ浦、北浦と水路相通じ、銚子河口に注ぎ、周囲には蒲、真菰が族生し、鯉、鮒、蝦等の魚族多く、期節には鴨などが群がり、水底に藻類繁茂し、農民は藻、泥土を採取して肥料とし、E漁業も兼ね真に農民の宝庫として営農に寄与してきた。かLる容装下にあった浪逆浦を何とか利用せんとする利権屋は漁業株式を創設して厚生せんとする輩もあったが失敗に終った。偶々昭和十二年支那事変勃発し東亜の風雲展開し、物資食糧問題に直面するに至って、干拓耕作地として出演することとなった。町当局当時町長窪谷和は町内有志と相図り、土建業者株木組(株木政一)と会談し、干拓工事施行の契約を締結した。然るに、一方政府は農林省に於て農地開発営団法を発令し、国の直営工事として開発する}とになった。}れによって町当局は先に契約した株木組との契約を取消、農地開発営団に移譲を万全の策として再三再四接渉の結果、無償にて取消を快諾されたことは特筆すべき一節であった。爾来潮来六丁目に農地営団事務所を置き、所長飯島来任と共に浪逆浦を包囲する二重谷等既成田の関係者を訪問し、堤塘敷地の分譲を懇請し幾多曲折を経て漸く工事の進歩をなし、成績全国に稀であったと賞明治末・大正期の潮来地方賛された時、正に大東亜戦争の国家総動員法を発令中、町壮年団、消防団、青年団等各種団体協力一致これが完成に努力した精華に外ならない。従って工事の完成に際し、一般町民並びに旧津知村旧延方村に対し耕作希望者を勧誘したるとも、戦争中壮者は出征し又軍需工場の徴用せられ、労働力不足のため自家の耕作すら放棄する現況にて、地方農民にては完全なる営農が至難であったので、東京都第2章に希望者を募り有良なる四十有余の入殖者を導入し得たのである。[浪逆浦干拓事業の経過について]事業当時の目的及び状態昭和九年頃人口増と農機具の改良進歩に伴い、農耕地は狭小に迫られたので、当時潮来当局の有志間に協議せられつつあった内浪逆浦干拓事業を計画中、昭和十四年頃窪谷和潮来町長に就任となり本事業を促進して農家の増反を図り、経営の運用良好ならしめんとする政府の国策も又食糧生産増強は圏内に重点を置く方針をとり、然るに大洲集落及び十番集落の一部は該地を飲料水として使用、又漁業者は豊富なる魚族の捕獲不能となるため該事業の施行に反対するものありたり。事業の概要支那事変は長期に百一り継続せられ、食糧の増産は急を要する状況となり、政府は農地開発営団に浪逆浦干拓工事を施工せしめたり。支那事変より更に大東亜戦争となり男子は続々招集せられ、女子も軍需工場へ徴用、全く人手の少ない時期に工事は進められた状態で、一方主食は増産を叫びおるも不足勝ちなり、戦闘は益々激烈となり、船舶は軍隊と軍需品輸送に充てられ、従って外国よりの食糧の輸入は絶無なり、政府は漸々農地の拡張増産に傾注す、浪逆浦干拓もこれに該当、突貫的に堤塘工事は進められ竣工したのである。内浪逆浦干拓とならぶ近代潮来町における大きな干拓延方干拓事業として延方干拓があげられる。延方村は「全地大部に分れ、前川及鰐川を以て限り南を徳島新田とし、北を本村とす」( (前掲『行方郡郷土史』)と記されるように、前川によって本村と徳島新田に二分され、水田耕地の大部分が徳島新田にあった。木村の農民は「笹葉舟」と呼ばれる小型船で前川を渡り、農作業に従事していたが、転覆事故にたびたび通過していたという。終戦直後の昭和二十四年頃、延方村の立野三司はこの前川によって二651