ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現近V(rr,-れ持看守誼〉量密@来潮郷水潮来町は、翌年七月に県に築港認可を申請し、十二月五日には昭和二十64年夏の完成を目指して実測を開始した。この計画は「徳川時代の潮来港再現を計画」したものと発表されたが、戦局の悪化で実現を見なかった。舟運によって潮来の復興を図ろうという構想は、戦後に引き継がれた。昭和二十七年(一九五二)十一月、水雲橋付近に大型発動機船の停泊可能な港(荷揚げ場)と、ドックを建設する計画が持ち上がった。そして茨城水路を行く小舟(千葉県立大利根博物館提供)県の昭和二十八年度港湾施設計画に組み込まれ、翌年には潮来港建設工事が着工の運びとなった。}れは観光客輸送に加えて、物資輸送をも舟運によるという、水郷潮来再生の悲願が込められたものであった。また戦争末期の昭和十九年三月には、潮来造船株式会社が設立された。これは、潮来町の全町議協議会の決議によって設立されたもので、戦時標準船(通称「戦標船」)と呼ばれる輸送船を、多数造船することを目的としたものであった。工ノした近代的輸送網の整備が進み、近世以来の舟運が町民の足、身近な舟運衰退する一方で、水郷のクリークを縦横に行き交う小舟は健在であった。昭和十年(一九三五)十月の利根川水系第V-50図の洪水では、潮来地方はもとより行方郡から対岸の千葉県香取郡にまで、道路や農作物に深刻な被害をもたらした。このため釜谷付近の町村道延方鉾回線ゃ、前川や北浦、鰐川西岸の堤防、護岸の随所が破損した。しかし、当時の新聞には「舟のタクシー水郷往来、今回の洪水で川岸通りが水浸し、学校・買物などに利用」とあり、庶民の足としての健在ぶりが忍ばれる。また同十三年七月初旬に発生した水害でも、常陸利根川の増水によって、麻生から延方にいたる沿岸が冠水し、潮来町では浸水家屋一四四戸を数えたが」のとき潮来郵便局では集配区域の香澄、延方、津知、潮来の一部で舟便で集配を行っている。