ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
の諸漁職を免許制とする原則を確立し、とくに各種の定置網漁法を禁止または制限したものである。同規則では、管内水域では、従来使用していない器具を用いて漁業を行う新規の漁職を制限している。また、震ヶ浦・北浦、浪逆浦での賛立漁や賃巻漁は、延長を一OO間以内(北浦、一五間)以上の浪逆浦では六O間以内)とし、水崖五O間(問、二O問、距離をおくこととされた。また、下利根川に達する流域、いわゆる浪逆浦のうち、北利根川からすなわち通船路については、賛立漁、責巻漁および於乃木漁を禁止した。次に各種漁職に関する制限であるが、大徳網は毎年一、二月及び七、八月に限り禁止され、エピ漁も毎年七、八月は禁止された。白魚網(帆曳網)は夜間に使用することを禁じられた。鰻長網は、河川を横塞するなど水利舟行の妨げになる使用は禁じられた。採藻は、毎年十一月一日から四月十日までは禁止された。また、明治二十三年八月十五日には、洪水など河川管理を湖沼川での採藻に優先させることを訓令している。ここで採藻とは、肥料として藻類を刈り取る〆粕、化学肥料などの購入肥料に加え、集落の背後にある斜面林や台地林の落葉や人糞、馬糞、ことをさす。震ヶ浦・北浦沿岸の農民は、子鰯、明治末・大正期の潮来地方ワラ、さらに沿岸に密生する藻、真菰、芦を刈り取って堆肥として使用した。このため、近世に霞ヶ浦沿岸で頻発した漁場争論では、芦や藻草の刈り取りをめぐる争論も少なくなかった(『石岡市史下巻通史編』)。これらの規制は、ほぼ当時の慣行を踏襲したものであった。なお、明治二十七年五月にはさきの「湖沼川漁業採藻取締規則」を修正し、震ヶ浦の水崖五O間以内で於乃木漁を禁止している(大内前掲書)。第2章明治三十四年(一九O一)一月二十五日、茨城県では、霞ヶ浦、北浦、浪逆浦及び横利根川、レ『UけHJ司ψAII E、』141小,剖刷MHUド鰐川、前川、総川に河川法を準用する旨を発布した。}れによって、自家用肥料として採藻するものも漁業法第一条「営利ノ目的ヲ以テ水産動植物ノ採捕」を行う漁業者と見なすこととなり、公有水面使用の許可を得たうえ、使用料を支払って採藻することが必要になった。また、明治三十六年(一九O三)五月には、茨城県は、河川法が準用される霞ヶ浦、北浦、浪逆浦、横利根川、鰐川、北利根川、前川、総川で漁業のための工作物を設置したり水面を占有するときは、漁業免許と同時に水面占有願を提出することを義務づけた。また、明治三十六年六月十七日、茨城県は漁業取締規則を定めた。}れは、漁業法の制定に対応した県規則で、湖沼川における於菜漁、建網、地曳網、大徳網を許可制とした。}のように、明治中期以降、限られた資源と公有水面の占有を必要とする霞ヶ浦・北浦の漁業は、漁法や漁場の許可制度が細かく設定されていった。漁業資源の保護霞ヶ浦・北浦の限られた水産資源を保護することは、近世以来の漁業関係者の課題であった。さきに触れたように、明治前期には乾エビや佃煮製造が隆盛になったため、明治十七年(一八八四)頃にはかえって漁獲量が減少してしまった。このため、茨城県では翌年五月に麻生村(麻生町)で「沿湖水産集談会」を開催し、各郡から一二名の「水産業篤志ノ者」を招いている。ここではすでに「水族ノ蕃殖」について検討している(「県下水産物ノ概況」『茨城県史料近代産業編H』)。また、明治三十三年(一九O O)に設置された県水産試験場では、有志者に鯉の稚魚を配布していたが、明治三十八年七月以後は県下主要河川に放流を行っている(大内前掲書、大正四年三月三十一日に同場が廃止され、養殖事業も中止となった)。また大正四年(一九一五)四月、茨城県は漁業取締規則に基づき、震ヶ浦・北浦沿岸に十一か所の魚介類及び藻類の禁漁区を設けた。627その中には、|日