ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近Vされた(「沿湖沼漁場ノ事」『茨城県史料近代産業編H』)。626明治前期の潮来地方の漁業のありさまを、釜谷地区を釜谷村の漁業例に見てみよう。霞ヶ浦の漁業の特徴は、専業漁民のほかに農民が漁業を行うことにあり、近世鹿行の農民は、両湖岸や行方台地の谷津に拓けた水田の稲作と平地林、斜面林を利用した薪炭生産に加え、肥料とするための藻草刈りや淡水漁業、さらに田舟や漁船を利用した川船稼ぎを組み合わせて生計を立てていた。釜谷そのような地区であった。岸根秋夫「釜石郁の営業鑑札願と生産村も、物調」(『ふるさと潮来』十輯)および藤島一郎氏の調査によれば、明治九年前川付近の投網漁(一八七六)の釜谷村では、茨城県から営業鑑札を受けた者は、四六一一戸のうち漁業者二ハ名、質屋一名、材木商二名、菓子商二名、洋物商二名、酒造業者一名となっていた。}の漁業者二ハ名の内訳は、「鰻漁、イサザ網漁兼」が九名、「海老樽、イサザ網漁兼」が七名であった。また明第V-37図治十二年には、川船二一般が釜谷村に登録されていたが、内訳は漁船六般、耕作船一三般、「房丁船」一般、高瀬船一般で、漁業鑑札を受けた者が一六名であることから、漁業者の大半が耕作船を使っていたことが分かる。また、唯一の高瀬船を所有していたのは岸根与七家で、船体の長さは五間(約九メートル)で、米五O石積みであったとされている。また岸根与作家が所有していた「房丁船」とは客船の一種で、船体の長さは六間あった。明治九年当時の釜谷村の各種生産物の中で、水産品は「イサジャ」一OO樽、小魚五O貫目、鰻二五貫目、「タン貝」四OO樽などであった。明治二十一年(一八八八)十一月二十八日、茨城県は漁業法制の変遷「湖沼川漁業採藻取締規則」を制定した(大内地山『茨城県水産誌第三巻』)。}れは震ヶ浦・北浦水域