ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節霞ヶ浦・北浦の漁業と潮来地方潮来町は行方台地の南端に位置し、町域は常陸利根明治前期の霞ヶ浦・北浦漁業川(北利根川)、浪逆浦、鰐川、北浦に面して前川、、'コ。、u w-d-その常陸利根川は震ヶ浦へと続いている。れらの水域を合わせると、滋賀県の琵琶湖や北海道のサロマ湖をしのぐ、わが国最大の内水面である。古来、この内水面は淡水と海水が混じり合う「汽水域」で、水深も浅く、長く入り組んだ湖岸線をもつことから、淡水魚介類の絶好の繁殖地であった。このため、さまざまな内水面漁業が盛んに行われていた。また、茨城県沖の鹿島灘では黒潮(日本海流)に発する暖流系水と親潮(千島海流)に発する寒流系水とが混じり合うことから、さまざまな魚種が回避しこれも全国有数の好漁場である。ように、茨城県は海水・淡水の漁業資源が豊富であることから、明治二十四年(一八九一)には漁獲物水楊高が全国第五位を占め、水産物販売高も全国第四位を占めている。明治末・大正期の潮来地方では、当時の震ヶ浦・北浦の漁業のありさまを見てみよう。明治十七年『茨城県勧業年報』によれば、霞ヶ浦・北浦沿岸の村落では漁業を行っているが、最も漁業が盛んな地域は新治郡、河内郡で、行方郡、鹿島郡がそれに次ぐと言われる。漁獲物は、エピ、シラウオ、ウナギコJ川目、フナなど多種ワカサギ、多彩で、特にエピ漁が盛んであった(「県下水産物ノ概況」『茨城県史料第2章代産業編H』)。このエピ漁について、明治十八年『茨城県勧業報告』は、当時の霞ヶ浦ではエピ漁が盛んであり、近年は「桜海老」と称して乾燥させ樽に詰めて東京方面及び海外に出荷しているが、)れは色昧が変化せず美味であると報じている(「霞湖魚漁通信」『茨城県史料近代産業編E』)。そもそも、乾しエピは天保年間(一八三01四三)に霞ヶ浦沿岸の漁業者が創出したもので、明治前期に改良を加えられて大衆の曙好に適うものになっていた(「県下水産物ノ概況」『茨城県史料近代産業編H』)。一方、明治十九年『茨城県勧業年報』によれば、北浦における主な漁F}獲物はウナギ、ナマズなどで、主な漁法であノ、ゼフナ、エピ、=コイる於乃木巻漁、責立漁、網代漁、大網漁は村毎に境界を設けているが、それ以外の漁法は一般入会漁場で区画制限はなく、それぞれの漁期に魚介の群集する水域で漁獲を行っていた(「沿湖沼漁場ノ事」『茨城県史料近代産業編E』)。震ヶ浦・北浦のシラウオ漁やワカサギ漁は、明治前期までは多人数を必要とする大徳網漁が盛んであった。大徳網は、新治郡坂村(現出島村)のの山口又助が考案し、それを塚本新七が改良したもので、多量の漁獲を得たことから「大徳」の名が付けられた(植田敏雄「霞ヶ浦の漁業」『郷土茨城の歴史』)。大徳網には、「岸大徳」(地曳き)と「沖大徳」(船曳き)とがあり、後者が規模も大きく一般的であった。大徳網は、毎年七月から十一一月までは主にシラウオとワカサギをとり、一月から三月まではコイ、フナなどを漁獲した。}の漁法は、網船と「こかい船」、手船を要するfこめ一網の操業に四0 1五O人を要した。大徳網は、新暦八月から二月まではワカサギ漁に用いた。また、三月から五月位まではワカサギや小エピをとったが、}れは大徳網に携わる水夫らが自家肥料とするため近に曳くものであった。なお同じような漁具に川地曳網があり、小型のものを「小大徳網」といい、元禄期から霞ヶ浦で操業していた(網野善彦「霞ヶ浦の魚介」『日本産業史大623