ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

実情であった。このような反省をふまえて、明治十二年になると、学制が廃止されて教育令が公布された。教育令によると、小学校は初等、中等、上等の三種類となり、合せて八年間が学齢とされた。しかし、就学年限については、土地の実情に応じて四か年までの短縮を認め、授業日数も毎年四か月以上実施すればよい、と規定された。そして、財政的事情により小学校の設置ができない場合には、教員巡回の方法で授業を実施してもよい、と規定した。学制の時期に規定されていた学区も廃止され、数か村が連合して小学校を設置すればよい、という規定もあった。教育令はこのように、学制により定めた画一的な方法を改正して、地域の実情に合せた教育方法の在り方を模索したものであった。}のような側面に着目して、自由教育令ともいわれる。教育令にしたがって、茨城県では明治十三年に「公立小学模範教則」を制定した。しかし)の教則は茨城県全域で実施することを求めたものではなかった。茨城県では各地域ごとに小学連合協議会を設置し、連合協議会の席でそれぞれの地域に応じた教則を作成する時の基準的なものを示したものであった。小学連合協議会の日割及び集合校をみると、第V叩表に示した潮来町域の小学校と上戸小学校、堀之内小学校(牛新しい時代の幕開け堀町)を含めた九校が、毎月三日に潮来小学校に集合して、小学連合協議会を開催し、潮来地方の実情に応じた教則の作成の作業を展開していたことがわかる。しかし、教育令による教育の方向を模索しているうち、教育令は明治十三年十二月になると大幅に改正されたのである。}の改正教育令にお第l章いては、従来の個人主義的な立場を重視するものから、儒教的徳育主義を重視するものへと、基本方針が変更された。個人の利益より国家の利益を優先する方向へと、はっきりと方針が転換されたのである。}のような変更にあたっては、当時明治天皇の侍講であった儒学者の元田永字らの影響が大きかった。明治十二年に天皇から、全国の小学校へ配付された『幼学綱要』は元田らが編集したものであり、国家主義的な道徳教育を推進する役目を果たすものであった。『幼学綱要』には、「孝子弥作」という題名で、行方郡玉造村の弥作の孝行話が載せられていた。また、自由教育令を改正して、国家意志を強く教育の前面に押出そうとした理由として、当時最盛期を迎えていた自由民権運動の影響を、学校教育の場へ直接介入させたくないということもあった。とにかく、改正教育令により教育年限は一律に初等科三年、中等科三年、高等科二年と規定された。また、修身が各教科の筆頭に位置付けられたのも、この時であった。茨城県においては、改正教育令をもとにして明治十五年に「茨城県小学教則」を作成し、}れが小学校令施行の時まで使用されることになった。明治十九年四月十日に、小学校令、中学校令、高等小学校令の公布学校令、帝国大学令の四つの勅令が公布された。明治時代の国家の根幹に関わる諸制度は明治二十年代に固まっていくのであるが、教育制度についても同じであった。明治十九年に小学校令が出された後に、明治二十三年には教育勅語が発布され、その直後には小学校令の改正が行なわれた。明治十九年に小学校令が公布されたが、その後の政治日程に上っていた市制・町村制の施行を待つて、整然とした小学校令を出そうとする意図が政府にあったため、実際には明治二十三年に出された改正小学校令により、小学校教育の基礎が確立することになった。また、明治二十二年には大日本帝国憲法が公布され、翌年には帝国議会が開設されるなど、591}の時期は戦前の日本の根