ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第六章蝦夷征討をめぐって第一節鹿島神と蝦夷征討鹿島神は土着の地方神ではなく、東国経略の拠点と東国進出と鹿島して大和朝廷により創建された可能性が強い。『常陸国風土記』にも「香島の天の大神」は、高天原のあまつかみ天神の命をうけて」の地に降ってきたとみえる。古代の霞ヶ浦は現在よりもはるかに内陸部に湾入していた入海であった。鹿島はちょうど扇の要のような位置にあったので、沿岸各地からの物資は船で鹿島の地に運ばれてきた。その物資集積地に鹿島神宮が創建されたのである(第二章第二節参照)。蝦夷征討をめぐって『常陸国風土記』香島郡の条に、毎年七月には舟を造って津の宮に奉おおさやま納する。古老のいうのには、倭武天皇の時代に天の大神が中臣の巨狭山命に託宣になり、「ただちに私の舟に奉仕するように」と仰せられた。巨狭山命は、答えて「おことばのほどつつしんで承りました。どうしておことばに背くようなことがありましょうか」と申し上げた。ところが、天の大神は、夜明け方になってまた託宣になり、「お前の舟は岡の上に第6章置いたぞ」と仰せになった。舟主が見たところ、舟は岡の上にある。また託宣があり、「お前の舟は海中に置いたぞ」と仰せられた。それで舟主がこの託宣にしたがって舟を探してみると、今度は海中にある。のようなことは、二度や三度ではなかった。}ういうわけで、すっかり恐れかしこんで、新たに舟を三隻、それぞれ長さ二丈あまりもあるものを造らせて、初めて献上したのに始まるという、と記されている。津の宮は海辺に置かれた別宮であろう。}の話は鹿島神宮の御舟祭の縁起を述べているが、「香島の天の大神」が舟を意のままに移動させる霊力があることを示しており、海上鎮護の神でもあったことを物語っている。東海道の最北端に位置する常陸国は、東山道の上野・下野両国とともに、蝦夷地と境を接する辺境の要衝として注目されてきた。とくに大化改新以後の東北地方の経営が、主として太平洋岸沿いの海道の蝦夷を対象としたので、常陸国は基地としての役割りを果たすことになったのでこうして、鹿島は物資輸送の仲継港としての性格をもつようになったと思われる。『常陸国風土記』に、淡海の世(天智朝)国寛ぎに遣わある。すために陸奥国石城の船造りに命じてつくらせた大船が、軽野の東の大海の浜辺に漂着したとあるのも、鹿島を目指した船団のあったことを物語っている。蝦夷征討における軍需物資の調達と輸送は、重要な蝦夷征討と水運課題であった。養老六年(七二二)閏四月二十五日のつぎのようにみえる。ehvbA'広ソA,兵を用うる要は衣食を本と為す。鎮に儲娘無くば何ぞ固く守るに堪太政官奏に、181