ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
これに対して、敷田年治の『日本紀標注』は「因幡は式(『延喜式』)に伊勢国壱志郡稲葉神社あり、此地にて、国名の因幡にはあらじ」とする。また伊良虞を現在の愛知県渥美郡渥美町の伊良湖岬の沖に浮かぶ神島に比定し、「此島に王子、墓と云ふあり、若くは麻続王此に莞じ給ひしにや」としている。吉田東伍『大日本地名辞書』は、『因幡志』を引用し「巨濃郡に伊良子埼といふ山ありて、牧谷吉田の辺なりとぞ、其地なる歎」とし、吉永登「いらこ島考」(『万葉』)も、麻績王の子供たちが伊豆島や血鹿島に流されたのに比して、主犯たる王の配流が伊勢であっては近きに失する、とし因幡国説を支持している。麻績王は『常陸国風土記』では、常陸国行方郡板来村(茨城県行方郡潮来町)に住んでいたことになっているのである。そこで松岡静雄『日本古語大辞典』には、「案ずるに因幡は下総の印幡(嬬)の事で、板来は印幡国と一衣帯水の地であるから、此王がここに住された事も有り得ぺきである」と述べている。しかし、『常陸国風土記』のありかたが、在地の人びとの生活と結びついていないことや、地名説話にもなっていないので風土記の筆録に当たった官人が、板来の地名から麻績王流罪の事件を想起し、書き加えた加能性が強いという考えがある(秋本吉徳『風土記』付金訳注)。常陸国風土記と行方郡だが『常陸国風土記』には、海浜にそった板来駅の西海人との関係に榎木林があり、そこに麻績王が住んでいたことを記し、「その海からは、塩を焼く藻、海松、白貝、辛螺、蛤がたくさん産する」と続けているのは注目すべきである。それは『万葉集』に伊勢国の伊良虞の島に流された麻績王が、浪にぬれて島の藻を第5章刈って食ぺていると詠まれた情景と通ずるものがある。また貴種である麻績王が「海人なれや」と詠まれているのは、悲劇の主人公である麻績王が、海人集団の守護神として杷られたことがあったのではないだろうか。麻績王の旧居とされる地が、榎木林となっているのも聖地として守られていたことを恩わせる。あまべ折口信夫は『万葉集』にみえる麻績王流離の物語が、海部の民ときわめて関係が深いことを指摘する。麻績王は貴種にして流離して、海部の民にまじって生を保っていたことを、世の人が悲しんだ様子を伝えたのが『万葉集』の歌だというのである。また、}の伝えが『万葉集』の左注に「日本書紀』を引用し、麻績王が因幡国に流されたとしているのは、奈良朝以前に、すでに麻績王の伊良虞の島の存在と争って、二国が対立していたことを示している、とする。さらに、『日本書紀』撰定と年代が隔てずにできた『常陸国風土記』に、行方郡板来村の駅家の西にある榎木林をなしたところに麻績王を遣わして居らせた、とあるのは、には配流の事は書いていないが、伊勢や因幡と同様、名高い麻績王が海部の人びととともに暮らしたという地を伝えたものだとしている。そうして、イラコ・イタコなど音韻相通じる地名を持つ土地に、この流離の物語が伝えられているのは、歌を中心として語られ歌われたりして、古代の国中を廻っていたことによる、とされている(「小説戯曲文学における物語要素」『折口信夫全集』第七巻)。前述のように(第四章第二節参閉じ、正倉院の調庸関係銘文にみえる行方郡高家郷の戸主大伴部荒嶋の存在は、北浦や行方の海に、漁携や水運に従事する大伴部(膳大伴部)が置かれて活躍していたことが知られる。海人集団の性格を有する大伴部が、板来の村にも分布して、麻績王を杷っていたことも考えられる。その場所が麻績王の旧居とされる榎木の林であろう。麻績王流離物語を伝承したという海部の民、つまり海人集団は、漁携、173