ブックタイトル潮来町史

ページ
169/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている169ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

第五章常陸国風土記と行方郡第一節奈良時代の自然林『常陸国風土記』にみえる自然林や樹木の記事は、次の風土記にみえる自然林とおりである。行方郡行方の郡と称するいわれは、倭武天皇が天下を巡幸され、海の(1)北を平定さオ1fこ時}の地をお通りになった。その時、槻野の清泉においでになり、手をお洗いになった時、持っていた玉を井に落とした。(2)無梶河から郡境の地まで行かれたところ、鴨の飛び渡るのが目ゆずるにとまった。天皇が射られるや否や弦の音に応じて鴨が地におち常陸国風土記と行方郡その地を鴨野という。土壌がやせていて草木が生えない。いちい〈ぬぎかえるでたけ鴨野の北には、様、柴、鶏頭樹などの木があちこちに丈高く生いてきた。繁っていて、自然に山林となっている。そこに析の池がある。v}れは高向大夫の時に築造された池である。北に香取の神の子神の社がある。社のそばの山野は土地が肥えていて、草木が密生して第5章(3)L、る。その北側郡役所の南門のところに一本の大きな槻の木がある。の枝は、自然に垂れ下って地面に触れ、そこから空に向かってそびえ立っている。ご}には昔、沼沢があった。今でも雨が続くと、郡役所の庭には水がたまってしまう。郡衝の傍らの村里には、橘の樹が生えている。(4)郡街より西北に提賀の里がある。昔、手鹿という名の佐伯が住んでいた。その人が住んでいたから、後の代になって里の名に着けたものである。その里の北に香島の神の子神の社がある。社の周囲の山野は土が肥えていて、生えている草木は、椎・栗・竹・茅のたぐいがたくさん生えている。やはずのうじまたち問古老がいうのには、継体天皇の時代に、箭括氏麻多智という人がいた。郡街の西にある谷を占有して、新たに田をひらいた時、夜万の神が群れをなし妨害した。麻多智は社を設け、夜万の神を祭った。その後、孝徳天皇の時代になって、壬生連麿がはじめてその谷を占有して、池の堤を築造させた。その時、夜万の神が池のほとりの椎の木に昇り集まっていつまでたっても去らなかった。ここにいう池は、今は椎井と名づけている。池のそばには椎の木があって、そこには清泉が湧き出ているので、池の名としたのである。附ここには佐伯で小高というものが住んでいたので、里の名につけた。国宰、当麻郡街の南七里のところに男高の里がある。昔、157