ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
が急増し、奈良・平安時代に継続していくタイプ、〈C)奈良時代末から平安時代初頭に集落がつくられるタイプである。Aタイプの集落は、常にその地域における中心となる集落で、集落の規模も大きく、大規模な状態を保ちながら継続していく集落である。Bタイプの集落は、人口増加に伴う住居跡の増加や、律令制度下における編戸作業の結果生まれてくる集落と考えられる。Cタイプの集落は、谷地などの開発が進められて行く中で、新しく形成されてくる集落と考えられる。これらの集落の開発に積極的に関わったのは、むらの中で財力を蓄え、実力をつけた有ふごうゃから一般的に「富豪の輩」と呼ばれた人びとである。さらに開発者力者での中には、その「富豪の輩」を組織、統率するような権力者である国司経験者などの存在も考えられる。以上のような三タイプの集落を、潮来町で確認されている集落にあてはめてみると、大部分がBタイプの集落に分類できる。しかし、潮来町の場合、いずれの集落をみても軒数が多いのは古墳時代の住居跡のほうで、奈良・平安時代に住居跡の軒数が増加するような集落はみられない。これは、前述したように地形的な制約から南部の低地には集落立地が困難な状況で、必然的に北部に集落が集中するようになるからである。のため一つの遺跡がいくつもの時代にわたって複合している状況を示すアとになる。一遺跡からの住居跡数さらに、奈良・平安時代になると、律令時代の社会が古墳時代に比べて少なくなってくる状況については、奈良時代になると古墳時代の集落から分村して、割合小規模な集落を数多くつくっていく結果と考えられるからである。}のように、潮来町の奈良・平安時代の集落は、割合小規模な集落が台地北部に数多く立地していることが予第4章想されるのである。衣東国の農村に暮らす人々の衣服を知る手掛かりとしては、正倉院に残る布抱の存在が考えられる。食)の布抱は、長袖の上着で、首が丸く、袷が広く、丈が長めで、般的に袴等を巻いて着たものと考えられている。}れらの生地に使用した布に関しては、前述したように、逢賀から調として都に運ばれ、正倉院に残されている布などがある。発掘調査で布が出土するのは希であるが、布を生産するための道具として使われた紡錘車は県内でも多くの遺跡から出土している。大賀地区にある大賀立野遺跡からの出土した紡錘車は、材質は石製で、平安時代の第一一号住居跡から出土している。紡錘車とは、糸を紡ぐときによりをかけるためのはずみ車で、その材質には鉄製、石製、土製などがある。鉄製のものは絹糸用に、石製、土製のものは麻糸用に使用されたことが考えられている。一般農民の食事については、雑穀や玄米などに野菜が付くのが普通であった。米のほとんどが税として徴収されてしまうため、玄米に雑穀を加えて炊いたり、蒸したりしてたぺていたものと考えられる。郷長階級の人々も基本は玄米で、一般農民と異なるのは肉や汁物、漬け物が食卓そに加わったことである。いずれにしても、白米の飯は彼らにとっては高根の花で、貴族階級の者だけが食することのできる食ぺ物であったと考えられる。これらの食物の調理には、主に住居内に設置されたカマドが使用された。カマドが出現したのは古墳時代の後期で、以来カマド構造に細かい変化はあるものの、全体として大きな変化はなく、平安時代中頃(一O世紀末)まで継続する施設である。遺跡から確認されるカマドは、ほとんどの場合、袖の部分だけで、天井部がそのまま残されている例はほとんどみあたらない。カマドにも色々な工夫が施されていて、袖に凝灰岩の151