ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
的な構造になっていた。しかし、郷里制は実際には二五年という短期間で廃止され、以後里という名称は使用されなくなっていく。このような律令的行政組織とは別に「むら」と呼ばれる組織も存在していた。この「むら」という組織も行政的に認められていたものであったが、基本的には律令的行政村落である郷や里とは一線を画するものと理解されている。「むら」に対する解釈も諸説があり、八木充(「奈良時代の村について」『続日本紀研究』第七1九号)は里に編戸されない集落が里に付属している状態としいわば未編戸村落と考えている。また岸俊男(「古代村落と郷里制」『日本古代籍帳の研究』)は国家主導形の行政組織である里に対し、むらを自然村落として捉えている。奈良・平安時代の集落がどこに存在し、どのような場所むらの景観に立地しているのかを知るには住居跡・寺院・郡街などの調査や土器などの遺物の表面採取によりわかってくる。さらに、集落の規模や状況がどうであったかという問題になると、遺跡の大規模な発掘調査を行わないとなかなか実態は明らかになってこない。潮来町内におけるこれまでの発掘調査ではこうした点がまだ充分ではなくこれまで実施された発掘調査で得られた資料をもとに集落の実態を考えていくにはなかなか困難な状況である。こらち〈ろいみね群馬県子持村の黒井峯遺跡では、榛名山の噴火により埋没した六世紀律令時代の社会代の集落遺跡が発見され、当時の集落の状況を推定する上で大変貴重な)の遺跡は、一軒の竪穴住居と、掘り込みをもたな資料となっている。さらに小規模な畑もみられる。これらの施い平地住居が数軒まとまり、設は垣根によって固まれており一単位の家の構成を示している。そし第4章てこれらの単位は道によって結ぼれているという集落景観を復元することができた。特に竪穴住居と平地住居が垣根によって因われていることから、当時の人びとが畑をともなった宅地として意識していたことがわかった。しかし、黒井峯の集落のあり方は、直接茨城県内の集落に当てはめるには難しい点もある。例えば、県内の集落に比ぺ黒井峯の集落には竪穴住居が少ないこと、自然環境が大きく異なることなどである。Y}のような理白から、黒井峯遺跡の集落が当時の集落の一般的な姿を表しているとは考えられないが、六世紀の集落景観を具体的に残しているという点で、茨城県内の集落景観を、大づかみに復元するうえで手助けとなる資料と考えられる。潮来町で現在までに奈良・平安時代の発掘調査が実施さ奈良・平安時代の遺跡れた遺跡は全部で五遺跡である。この中で集落全体を調査した例はなく、いずれも集落の一部だけの発掘となっている。具体的に調査された遺跡の概要について述べてみると次のようになる。はなわ羽塙遺跡は北浦を見下ろす台地縁辺部に立地し、竪穴住居跡二ハ軒、掘立住建物跡八棟、土坑六五基が確認されている。竪穴住居跡は弥生時代のものが一軒、古墳時代のものが八軒、奈良時代のものが五軒、時期不明のものが二軒となっている。奈良時代の住居跡からは須恵器の杯蓋や土師器の境などが出土している。住居跡の配置や遺跡付近の地形から考えて、調査した地域の西側一帯に遺跡が広がっていることが考えられるたのもり。田ノ森遺跡は塙遺跡から南東に約一・八キロメートル離れた台地上に位置し、発掘調査によって竪穴住居跡四軒が確認されている。四軒とも平安時代の九世紀代の住居跡で、須恵器の杯、聾、甑や土師器の杯、聾などの遺物が出土している。遺跡は発掘調査を実施した地点の南側に広がっていることが考えられる。149